ミッドナイトシュガーケイン

Midnight Sugarcane

ミッドナイトシュガーケイン

ガスステーション

ガスステーション
 
「そんな無謀なことは、もうしてはいかん。危険だ。二度としないと約束だよ」
 60歳をとっくに過ぎた日系のおじいさんは諭すように人差し指を顔の前に突き立てて左右に軽く揺らしながら言った。
その仕草は明らかにアメリカ人のそれだ。
 僕達が昨晩ハレイワのサトウキビ畑の中で野宿したことを話すと彼は呆れ顔で忠告してくれたのだ。
***
 
 天気の良い午前10時過ぎだった。僕と英毅は、乗っていたモペットの給油のためにこのガスステーションに寄った。
 モペットとは50ccクラスのペダル付きバイクのことだ。モーターとペダルを合成してできた言葉だが、ここではペダルのない原付バイクもそう呼ぶらしい。僕達のバイクにはペダルはなかった。
 このモペットは二日間かけて島を一周するために手に入れたレンタルだ。相当に年季の入った色褪せたオレンジ色のバイクだがエンジンはすこぶる調子がいい。
 ハイウェイ1号線と99号線が交叉するあたりからわずかに東へ逸れたワイパフ郊外のごく小さなガス・ステーションにその日系のおじいさんはいた。これから行くパール・ハーバーに目と鼻の先だ。
***
 緑地帯の多い静かな地域でハイスクールとジュニアハイがセットになってあるような典型的なアメリカの住宅地にそのガス・ステーションはあった。
 木造の平屋に強引にガスメーターとサプライヤーをくっつけたような格好で、ずっと昔からそこにあったのだと思う。
ひっそりとその存在を主張していた。目立ちはしないがその街の図が完成するためには無くてはならない。
***
 
 僕達がモペットでそのガス・ステーションに乗り入れた時、彼は嬉しそうな表情で「久しぶりのお客さんだ。あんたら日本人の学生さんかい?」とかなり訛りの強い英語で話しかけてきた。
 僕達はそうだと答えると自分は日系二世だと言って握手を求めてきた。どこから来たという質問に僕はホノルルからノース・ショアを回って99号線を来たと答えた。
「そうじゃないね。日本のどこから来たのかね?」
「ああ、そうか。京都だよ」
***
 
「おお、キョートか。私も二度行ったことがある。私の叔父さんが大阪に住んでるんだよ。だから私も大阪で二か月ばかり暮らしたことがある。その時キョートに行ったのさ。日本はいい所だ」
 出会った日系人のほとんどが日本に何らかの憧憬を持っている。そして彼らは必ず日本はいい所だと言う。
「ハワイもいい所です」 と僕は言った。

「そう、ハワイもいい所だ。でも日本より貧しい。そして少し危険だ。ガンを持ってる奴がたくさんいる。小銭欲しさにすぐにホールドアップだ。時には殺すことさえある。気をつけろよ」
「わかりました。もう危険なことはしないよ」
 僕は誓いを立てる仕草をした。彼はにやりと笑ってうなずいた。
 僕達はガソリン代に75セントずつ払い、彼と別れの握手をしてパール・ハーバーに向かってバイクを走らせた。

サンセットビーチ

***
 
 午後6時、僕はノース・ショアのサンセット・ビーチに平行している83号線を海岸を眺めながらモペットを走らせていた。
 サンセット・ビーチはその名の通り太平洋に沈んでいく太陽を真正面に見ることができる。しかしさすがの南国の太陽も夕方になると日射しは弱まってオフショアの風が肌寒く感じ始めた。海岸では本場のサーファー達が帰り支度をしているところだった。

 僕はビーチピープルのなかに英毅の姿を探した。英毅とはホノルルからカネオヘまで一緒にツーリングを楽しんだあと別れた。
「午後六時にサンセットビーチで会おう」 と言ってから約七時間余り過ぎていた。
 程なく僕は彼の姿を見つけた。ビーチの北端にあたる場所に彼はいた。赤いポンティアックの4ドアセダンに乗った女性と話をしていた。日本語だ。
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 彼女は長い黒髪で日系の顔をしていた。年齢は20代後半と言ったところか。
 僕は二人の近くの砂地にバイクを止めるとイグニションのキーを回した。アイドリングのエンジン音が消えた。
 彼女は僕の方を見た。
「ああ、来た、来た。彼でしょう?」
 彼女は僕を指して英毅に言った。彼は笑いながら僕に
「よお」
 と声をかけてきた。僕は二人の側まで歩いた。
「少し遅かったな」
「ちょっとな」
 と僕は腕時計を見ながら答えた。埃で白くなった表面を通して針は6時10分を指していた。
「彼は5時半からここで待っていたのよ」
 と彼女は英毅に共鳴を求めるように話しかけてきた。
「ああ、そうだったのか。悪かったな。実はさっきまでエフカイビーチをサンセットビーチと勘違いしてそこで待っていたんだ。北海岸はどのビーチも似たような感じでわかりにくい。ところでこの女の人は誰?」
 僕は英毅の方を向いて尋ねた。
***
「この人は真由美さん。40分前にここで会ったばかりや。東京の人」
「こんにちは。真由美です」
「こんにちは。高田です。てっきりオアフに住んでいる人かと思った。年季の入った肌の灼け方ですね。普通の観光客の灼けとは全然違う」
「あはは。この人も間違ったわ。私のことを日系人だと勘違いして英語で話しかけてきたの。最初は私も英語で答えたけど」
 英毅は苦笑いをした。

「どのくらいハワイにいるんですか?」
「一年の半分くらいかな」
「へー。グリーンカードを持っているんですか?」
「いいえ。観光ビザしかないから二か月経ったら日本に帰って、そしてまたこちらに戻ってくるということを繰り返しているの。こっちにお友達がいるから… そこでお世話になってるの」
 彼女はビーチ沖の波を指した。二、三人の男達がサーフィンをしている。
***
「ナイス! 上手くなったわ。今ターンをした彼がそのお友達」
「なるほど」
 僕は変に感心して波間に浮かぶ人間を見つめた。
 左ハンドルに手をかけている彼女は大型の古いポンティアックの中でタバコを吸い始めた。
 白麻のムームーを着てロイドメガネをかけている。メガネのせいで鼻が低く見える。美人とは言えないが気さくな感じの人だった。

 僕達は、大学の卒業旅行で初めて海外としてハワイに来たことや、ツアーには申し込まず自由に過ごしていることなどを話した。
 今晩は野宿を計画していることを話すと彼女は真顔になって、やめた方がいいと言った。それから彼女は自分がかつて危ない目に遭ったときの事を話し始めた。
 そうこうしているうちに結論が出ないまま6時半を回った。
***
「おい、伸。そろそろ行かないと日が暮れてしまう」
 英毅はそう言うとモペットにまたがりイグニションにキーを差し込みレディ・ポジションに合わせるとキックでエンジンをかけた。僕も続いてエンジンを始動させた。
 僕達は真由美さんに別れの言葉を言うとバイクを砂地からアスファルトの道路へと乗り入れた。二つのアイドリングの音に真由美さんの声が飛び込んできた。

「気をつけなさいよ。野宿なんかせずにどこかホテルを見つけなさい。夜の海岸は特に危ないから避けるのよー」
 海を向いたポンティアックの中から彼女はそう叫ぶと笑いながら手を振った。
 僕達は83号線をハレイワへと向かった。

グローサリーストア

***
 ワイメア湾を越えカワイロア・ビーチを抜けカメハメハ・ハイウェイを通ってハレイワの街へ入った。
 そこには僕を感動させるには十分すぎるものがあった。写真でしか見たことがなかった「古き良きハワイの残り香」を見つけたのだ。
 木造の二階建てのなぜか懐かしいカントリーストアだ。肩を寄せ合うようにして六軒がポツンと存在していた。

 片岡義男の言葉を借りるなら「その店だけ昔のハワイから抜け出して生き延び続けているような、あるいはこの店の建っているところだけは時間の進行が止まったままのようなそんな佇まいだった」
 板壁は淡くくすんだモスグリーンに塗った店とベージュの店が二軒並び、道路を挟んで白い板壁の長屋風の建物に四軒の店が収まっていた。
***
 古いせいで板が一枚一枚微妙に反っていて継ぎ目がはっきりとわかるような木造だ。ペプシのマークと手書きの看板は味わいがある。
 パンチ・パンチ・ストアという店名の下には雑にシェイブ・アイスと書かれている。窓にはコダックのトレード・マークが貼ってある。
 午後七時の夕陽を浴びてどの店もじっと息をひそめていた。
 僕は「すごい」と口走りながら「古き良きハワイの残り香」をカメラのファインダーに収めた。 

 ハワイの残り香に後ろ髪を引かれる思いで82号線と合流するウィード・サークルに着いた。あたりはすっかり暗くなっていた。
 ウィード・サークルはごく小さな円を描いたジャンクションでそこから三方に道が分かれていた。
 西へ行けばワイアルアに向かう82号線。それを行き続ければカエナ・ポイントというオアフ島最西端に到る。
 南に行けばトンプソンコーナーというサトウキビ畑しかない小さな町に着く。
 トンプソンコーナーという名前を僕は気に入った。日本語に訳せばトンプソン横丁だ。
***
 東へ向かえば99号線でクーラウ・レンジとワイアナエ・レンジの二つの山脈に挟まれた海抜の高い盆地に通じる。
 この時、僕と英毅はどちらへ行けばいいのか、皆目見当もつかずサークルを虚しく何度も回るだけだった。
 僕はとりあえずジャンクションのすぐ側にあるABCストアのパーキング・エリアにバイクを停めた。
 あたりは民家もない所で明るく照明がついているのは、そのABCストアだけだった。僕達はそこでまず食料を買い込むことにした。
***
 ビーフジャーキー二袋とポテト缶、ハンバーガー二つと安物のバーボン7.5オンスボトルを二本。そしてバドワイザー12オンス二缶をレジへ持って行った。15ドルでお釣りがきた。
 店員に買ったものをパッキングしてもらっている時、外で一台の車がエンジン音を立ててパーキング・エリアに入ってきた。
 やがて一組の男女が入り口に姿を見せた。女性の方は真由美さんだった。
***
「あらっ、またあったわね。泊まる場所決まった?」
「ええ、まぁ。ちょっと先のシュガーケインの中ででも…」
「あはは、死んでも知らないわよ。気をつけなさいよ」
「うん。ここのスーパーでピストルを買ったから大丈夫ですよ」
 真由美さんがあまり脅かすものだから僕達は少々不安になってトラベル・サービスのグロリアに電話をかけることにした。
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 万一 僕達が死んでも前後の状況をつかめるようにだ。とにかくハレイワのシュガーケインの中で夜を明かす事実を伝えたかった。
 僕はABCストアの前にあるテレフォン・ボックスに入った。
 15セントを入れてダイアルを回した。通じない。三度やってみたが、どうしても通じない。コール音さえしない。
 ボックスの外では英毅が待っている。
 僕は諦めた。どうにかなるだろう。

サトウキビファーム

***
 僕と英毅は食料をナップサックにつめ込んで西へ行くルートに決めて出発した。
 レンタルのバイクはヘッドライトもテールランプも点灯しなかった。
 僕達はオレンジ色の街灯が所々にある薄暗い道路をゆっくりと進んで行った。その道はやがて南へと向かい一面サトウキビ畑の地帯へと導いてくれた。

 ウィード・サークルのジャンクションから二マイルほど離れた所から延々とサトウキビ畑が続いていた。たまに車が通り過ぎる以外は沈黙と暗黒の世界だった。
 うまい具合にサトウキビ畑への進入路を見つけると誰にも見られないようにしてカットインした。
 キープ・アウトの標識の前でバイクを停める。
 高さ50センチほどの位置にチェーンが張られ封鎖されている。
***
 僕達はバイクを抱えてチェーンが途切れている用水路の脇を抜ける。
 百メートルほど奥に進むとバイクにロックをして手頃な空間を見つけて落ち着ける場所を構えた。
 しばらく休憩した後、僕はバドワイザーを二缶取り出して一つを英毅に投げ渡した。まだ冷たくて水滴のついた缶はずっしりと十二オンスの重さそのままでその量感は驚くほど新鮮だった。
 口金を引っ張り上げると「プシュ」というあの独特の音があたり一面に響き渡る。
***
 ハレイワの満月の下で僕達は乾杯をした。一気に半分ほど飲み干す。ビールの香りが口の中に広がりそして胃にしみ込んでいった。
 ウィンストンの潰れた赤いパッケージからタバコを一本引き抜くと火をつけた。
 絶妙に香る煙を僕は大きく吸い込む。タバコの赤い光が一瞬明るく輝く。
 僕はゆっくりと煙を吐いた。ただし煙は見えない。奇妙な浮遊感を覚える。
***
 FMラジオを取り出しオンにしてFMQUEにチューニングを合わせる。軽快なジャズが流れてきた。
 ウエス・モンゴメリのギターだ。暗闇の中で聴覚への純度の高い刺激が心地良かった。モンゴメリ独特のこもった音のオクターブ奏法がサトウキビ畑に吹く風に乗る。
 満月の光は青白い。雲の流れは意外と速い。はるか遠くにカモオロアの街らしき灯りが地上に落ちて来た星のようにちらちらしている。

 東の空を背景に無数のシュガーケインがシルエットを作っている。
 自分がどこにいるかわからなくなるような奇妙で不確実な存在感にしばし囚われる。
 夜の暗闇は世界中どこでも同じような気がする。夜の黒は何でも塗りつぶしてくれる。
 北斗七星が日本で見る姿とは違って見えた。
 風は南国の風だ。サトウキビの香りが染み込んだようなむっとした有機質な風だ。
***
 つぶやくようなDJの語りがラジオから時折聞こえる。やがてオールドスタイルのジャズが流れてくる。
 夜空を見ながら僕はチューニング・ダイアルを回す。
 ソニー・ロリンズのウェイ・アウト・ウエストが流れる。ジョージ・ベンソンのキャスト・ユア・フェイト・ツウ・ザ・ウインドが流れる。そしてビートルズのアンド・アイ・ラブ・ハーが流れる。
 アメリカのFMはいつ聴いても飽きない。それほどいろいろなジャンルのいろいろなアーティストの曲が次から次へと流れる。
***
 曲のつなぎのDJも心地よい。日本独特のあのもったいぶったような音楽の流し方をしない。
 荒野の中で一人聴いている者に一瞬たりとも沈黙の孤独を感じさせないような音楽の流し方だ。
 僕はじっとFMを聴きながらバーボンを噛み締めるようにして飲んだ。
 隣人はひたすら黙っている。時折思い出したように言葉を交わす。
 しかしどんな会話も沈黙の魅力には勝てなかった。
 強盗などに出会うはずがなかった。誰もサトウキビ畑の中に人がいるなんて思うはずがないからだ。
 そのかわりに僕達はやがて途方に暮れるほどの蚊に襲われた。身体中を何らかの衣服で包む。ジーンズの上からでも蚊は刺してくる。
 僕は絶え間なく聞こえる耳元での羽音に嫌気がさしてサトウキビ畑の散歩に出ることにした。
 月明かりを頼りに奥へ奥へと続く通路を進んでいった。
 どこまで行ってもサトウキビ畑だった。いつまで待っても真夜中だった。


           ミッドナイト・シュガーケイン


 やがて風が強く吹いてきた。これから僕達は何時間も寒さに耐えなければならなかった。


 1982年 2月